明治のはじめ、税金の徴収のため芸人が許可制になり、今で言う事業届のように、芸人は届を出して「鑑札」を受けることになりました。
「浪花節」として鑑札を受け、浪花節語りは寄席へと進出をします。
そして、ヒラキの解体で行き場を無くした他芸能を吸収し、その勢力を拡大してゆきました。
Contents
着実に広まる浪花節人気
関東節の開祖・浪花亭駒吉
寄席へ進出し、浪花節は更に芸の精度を磨いてゆきます。
いままでヒラキでやっていた演目だけをやっていくわけにもいかず、寄席にあわせたネタが必要だったのです。
そこで行われたのが、ちゃんとしたストーリーのある講談から、話のネタをもらうというものです。
歴史・ストーリーのちゃんとした講談のネタに、節をつけて唸りあげ、浪花節は幅を広げていきました。
この時の功労者といえるのが、「関東節の開祖」とよばれる、浪花亭駒吉(なにわていこまきち)です。
浪花亭駒吉は、祭文語りであった浪花亭辰之助の弟子でしたが、悪声で将来性を認められず破門となります。
その後は、転々としながら、デロレン説教節や浮かれ節を習得しました。そして、説教浄瑠璃と出会い、祭文にデロレン説教節の三味線の要素を取り入れて、関東で現在の浪花節の形を確立した人です。
おそらく、この時にはすでに浪花伊助が大阪で作り上げた浪花節のスタイルが江戸にも入っているころで、その影響もあったと思われます。
三味線の名手であった戸川てるは、悪声でも独特の節を持った駒吉に興味を持ち、彼の相三味線となります。
そして、2人で関東節の約束事である「約節」をつくりあげました。
このことからも、浪花亭駒吉は「関東節の開祖」と呼ばれています。
浪花亭駒吉は、講談からもらったネタを200~300持っていたと言われています。
こうして浪花節に作り直したネタは、その後さまざまな流派へと伝わりました。
こうした尽力もあり、ヒラキ芸だった浪花節を寄席へと定着させました。
さらには、「お座敷芸」の看板を上げ人気を得て、後には華族の前で披露することもあったといいます。
1日に数軒のトリを務める人気の浪花節語りであり、関東の浪花節語りをまとめる存在となったのです。
こうして、浪花節は、寄席・講談以上に大衆芸能としての人気をつかんで行きました。
さらなる革命、桃中軒雲右衛門
ここから、更に浪花節は人気を拡大してゆきます。
「浪曲の中興の祖」とよばれる、桃中軒雲右衛門という浪花節語りが現れます。
この桃中軒雲右衛門は、浪曲を学ぶ際、真っ先にでてくる代表的な名前でしょう。
雲右衛門は、「wacco 浪曲」でも紹介した、現在の浪曲に直接つづく、テーブルかけを用いた威風堂々とした上演スタイルを築き上げました。
浪曲界の大看板で「浪聖」と謳われました。
紋付き袴を着て、髪は総髪、演台を前に立って義士伝を唸り上げる雲右衛門の豪快な語り口と姿、掲げられた「武士道鼓吹」のスローガンは、日露戦争後、自由民権運動が挫折した後の保守的な世間を取り込み、浪花節の人気は更に高まりました。
そして、寄席芸であった浪花節を、さらに劇場へと進出させます。
明治時代、「本郷座」という大劇場で公演をかけます。
演台・湯呑み台、背後の長椅子にはそれぞれテーブルかけをかけ、また左右に置かれた低めの台にもテーブルかけをかけて松の盆栽を置き、さらに後ろには金屏風といった、豪華絢爛な装いで行い、このスタイルがいまの浪曲にも受け継がれています。
差別されていた浪花節が、だんだんと社会に浸透してゆきました。
雲右衛門の名前の由来
亭号は沼津駅の駅弁屋である「桃中軒」に、名前は修行時代に兄弟分であった力士の「天津風雲右衛門」に由来するとされています。
時代に愛される芸「浪曲」へ
レコードの普及により、全国的な人気に
こうして寄席、劇場へと進出し、演芸のなか存在を大きくした浪花節。
この浪花節がさらに、世間ではやるきっかけが起きます。
それは、レコードと鉄道の普及です。
レコードはとても高価で、お金持ちがクラシックを聞くものでしたが、大正時代に国産の蓄音器が量産されるようになります。
そして、浪花節のレコードがつくられ、これが大ヒットしました。
街のいたるところで浪花節のレコードがかけられ、それを聞きにお客さんが集まってきたりと、大変な人気でした。
これによって、浪花節は全国に広まることになります。
そうすると、地方の大きな劇場などからお呼びがかかり、鉄道も普及してきていたため、地方でも頻繁に公演されることになります。
そして、その頃に関東大震災が発生します。
寄席がどんどん下火になってきたところ、寄席自体が倒壊してしまいました。
そうして、寄席はなくなり、かわりに映画館になったりと、大幅に減少します。
しかし、浪花節は地方に活動の場を広げていたので、さらに全国的な人気となってゆきました。
ラジオ爆発!さらなる人気へ
そんな中、大正十五年にラジオ放送が開始されます。
はじめ、浪花節は差別されてきた経緯もあって、NHKでは放送されませんでした。
落語や講談は放送されましたが、浪花節は「下品な芸」というイメージがついていたり、当時の知識人から嫌われていたりと、教育的にも好まれていませんでした。
しかし、試験放送として一度放送したところ、全国から「浪花節を放送してくれ」と投書が届くなど、大きな反響があります。
字が書けるくらいの教養のある人にも、浪花節は人気があるということがわかり、レギュラー放送になります。
他の演芸やドラマを抜いて、昭和初期には浪花節が放送時間数トップの人気番組となりました。
そして、現在も根強い人気の広沢虎造(ひろさわとらぞう)や玉川勝太郎(たまがわかつたろう)が登場し、さらに盛り上がっていきます。
一方で第二次世界大戦がはじまります。
明治時代から、啓蒙活動や演説に使われてきたように、戦争に国民一丸となれという啓蒙に、浪花節は使われます。
「浪曲向上会」ができ、「国策浪曲」が多くつくられ、業界は染まってゆきました。
そして、一旦はだんだんと浪花節も衰退してゆきます。
しかし、浪花節の人気は戦後復活をします。
昭和二六年に民間放送がはじまり、浪曲の人気が復活します。
当時の大衆小説をモチーフにした続き物を、連続小説のように楽しんでいました。
いまおなじみの「ちょうど時間となりました〜」も、いいところで切って次の放送につなげるラジオの影響が大きいでしょう。
国友忠(くにともただし)の「銭形平次」の連続放送などが、大変に人気でした。
この頃の浪花節人気はすさまじく、納税額が大きい順で発表される「長者番付」では、上位のほとんどを浪曲師が埋めていたほどでした。
また、東京放送では「浪曲天狗場」という、素人の浪曲のど自慢番組が行われ、これも大きな反響がありました。
文化放送やニッポン放送でも類似の番組が作られます。
これによって、銭湯などで、みんなな浪曲を口ずさむことになります。
まさに黄金期ともいえる絶頂を経験し、昭和三十年頃から、浪曲は徐々に衰退することになります。
「浪曲」という名前
そんな激動の時代を生きてきた「浪花節」
すでにお気づきかと思いますが、浪花節という名前と混在して「浪曲」という名称も登場してきました。
時代をくぐり抜けながら、大正十年頃から、浪花節は徐々に「浪曲」と呼び方を変えられていきます。
これについては、鑑札のきっかけがあったわけでもなく、長い間、呼び方は混在していました。
特に関西では「浪花節」、また九州では長い間「祭文」と呼ばれていたりもしました。
それも、浪曲業界の内側から徐々に「浪曲」という名前が使われ始め、それがゆっくりと浸透してゆきます。
戦前につくられた「国策浪曲」からもわかるように、このころには段々と「浪曲」という名前が使われていたようです。
「浪曲」という名前は、遡ると大正三年に確認することができます。
「浪曲改良を議会に提出」という記事が読売新聞に掲載されました。
この内容は、「浪曲改良会」という団体がつくられ、浪曲を「芸術的音曲」にし、「社会風刺の機関」とするための「浪曲師」の育成するというものでした。代議士や弁護士、実業家など、あらゆる知識人から賛同を得てもいるとのことです。
しかし、結局は活動も継続されませんでした。
また、「浪曲」という名前も、浪曲業界内の当事者が使ったわけではないため、特に定着はしませんでした。
定着していったのは、大正十年以降だと思われます。
この頃から、「浪曲」という名前は浪曲業界内で徐々に使われ始めます。
大正十二年、鼈甲斎虎丸をはじめとした演者が開催した「浪曲大会」などがいい例でしょう。
しかし、まだ混在していたため、その後、大正十四年に発足された「東京浪花節協会」では、公式の名前に「浪花節」を使っています。
しかし、昭和十三年、戦後体制への対応もあり「日本浪曲協会」と改称されることになります。
浪花節という名前がまだ残りつつも、混在しながら、徐々に「浪曲」という名前が主になってゆきます。
浪花節をとりまく時代が変わっていく中、浪花節自身も新しさを求めたのが、「浪曲」という名前の変更にあったのかもしれません。
「浪花節」「浪曲」に共通していえるのは、いずれも業界が新しさをにじみださせる看板として期待をこめて用いたということだろう。その新しい衣を受け入れつつも人々になじみのある旧名称がしぶとく残っていくという経緯の中で、呼び方は併存したいったのである。呼び名の混在は、浪界の自己表象と社会的な表象の亀甲体現している。せりか書房「浪花節の生成と展開〜語り芸の動態史にむけて〜」
さいごに
明治時代に生まれた、新しい芸能の浪曲。
しかし、その歴史は非常に興味深いものです。
古くは天保の大道芸から、底辺を生きていた人々による芸は、芸能のいいところを盗み、まねして、しぶとく生き残ります。そして、他の追随を許さないほどの絶頂を迎え、「大衆芸能の王様」と呼ばれるまでにいたったものの、テレビの普及などにより見る影もなく衰退しました。
浪曲の内容は、ダイナミックで涙をそそるものが多いですが、この浪曲自体が抱えている歴史も、とてもドラマチックです。
近年、この浪曲が、再び人気をあつめてきました。
スター浪曲師が誕生し、木馬亭以外の寄席にも進出し、盛り上がっています。
時代、時代で新しい風をふかせてきた浪曲。
こんどは、どんな巻き風を起こしてくれるのか、非常に楽しみな分野です。
これからも、木馬亭での浪曲の奮闘や、名浪曲師の活躍など、書いていきたいと思います。
が、ひとまず
浪曲ができるまでは、まず!
これまで〜!
参考文献
Wikipedia
せりか書房「浪花節の生成と展開〜語り芸の動態史にむけて〜」
株式会社晶文社 玉川奈々福「語り芸パースペクティブーかたる、はなす、よむ、うなる」