日本の芸。知って、触れて、好きになる。

浪曲ができるまで② 〜寄席への進出と「浪花節」の確立〜

浪花伊助によって誕生した「浮かれぶし」は大阪で大成功をおさめました。
こうしてできあがった、浮かれぶしの語りと三味線という形は、流行し、江戸へと逆輸入されます。
浪花節の誕生
関東、関西でそれぞれの発展
 
江戸へと逆輸入された浮かれぶしは、「浪花節」という名前で呼ばれるようになります。
 
そして、関西、関東とそれぞれの地で定着し、まわりの流行を貪欲に吸収しながら発展していきます。
関西だと義太夫の影響を受け、三味線の調子は低くとられ、関東でははやっていた新内の影響を受け、三味線の調子は高くとられました。
この三味線の特徴は、現在の浪曲の「関西節」「関東節」と同じです。
 

しかし、実を言うと関西節と関東節の起源については、はっきりとわかっていません。

これについては諸説あり、例えば、「ちょんがれ・ちょぼくれ」の時点で、江戸と上方ではそもそも違うものだったという意見もあります。
 
つまり、ちょんがれ・ちょぼくれは一つの芸ではなく。上方のちょんがれと江戸のちょぼくれというように、別々のもので、それぞれが関東節、関西節へとつながっていったのではないかと見ているものもあります。
 

長い歴史の間に、他芸能との影響、合体で形作られてきた、浪曲ならではの複雑さです。

ヒラキから寄席へ
ヒラキで生きる大道芸人たち
 
浪花節はヒラキとよばれる場所で盛んに行われていました。
ヒラキとは、大道芸の仮小屋で神社やお寺の境内などの盛り場に、野天か仮説のよしず張り(すだれで仕切りや日除けをつくるもの)の小屋、またはそこで行われる興行のことを指しています。
仮説でスペースをつくって、縁日の屋台のように芸が披露されていました。
料金は大道芸と同じく投げ銭形式で、気に入った芸人の盆に銭を置けばよく、結果的に無料で見ることもできました。
 
ここでは浪花節をはじめ、門付芸であったちょんがれ・ちょぼくれ、デロレン祭文、七色節、かっぽれ、また辻講釈や女流義太夫などが公演されていました。
 
ヒラキに出演する大道芸人の身分は低く、さらに常設の専門小屋である寄席の登場で、寄席芸人からは「乞食芸」として低く見られていました。
落語もはじめは辻咄でありヒラキでの興行もあったようですが、米沢彦八が江戸で寄席興行の形態をはじめて寄席芸となり、ヒラキで行われていた辻講釈は下のものであると扱われます。
 
現在の玉川派の開祖 美弘舎東一(青木勝之助)
 
ヒラキは東京以外にも各地につくられていました。
その中で、横浜本牧のヒラキで活躍していたのが、浪花節の青木勝之助(後の美弘舎東一)です。
とても上品な芸風で、「野狐三次」「鬼神於松」「俊徳丸」を得意とし、常に上流の客が集まりました。
非常に人気で、上がりは人力車に一杯に積み上がるほどで馬の背に乗せて運んだといいます。
明治二年に横浜から上京します。
そして、東京のヒラキにも出ながら資金を集め、これを寄席への進出にあてました。
 
ヒラキから寄席進出への功労者
 
ヒラキでの興行は、野外であるため天候に左右され、また料金は投げ銭であるため本質的に不安定なものでした。
また、乞食芸だと言われることもある身分の低いものでした。
寄席に出られたら、収入も安定し、馬鹿にされることも減ります。
しかし、ヒラキの芸であった浪花節語りが寄席へ出るというのは、非常に大変なことでした。
寄席取締規制に浪花節は認められておらず、差別もありました。
 
そこで力を貸してくれたのが、四代目金原亭馬生(きんげんてい ばしょう)です。
馬生は落語家ではありながら、税務や事務の一切を引き受けていた人物でした。
馬生の計らいにより当局へ願いを提出し、青木勝之助は「金松亭勝之助」(きんしょうてい かつのすけ)の名義で落語の鑑札をとることができ、高座へとあがります。
そして1873年、四谷忍原横町の「山本亭」で、「浪花節」の看板を掲げての寄席出演が叶い、大入りの大成功でした。
 

こうして、浪花節の寄席進出への道がひらかれました。

しかし、これによって立場が悪くなったのが金原亭馬生でした。彼はこのことで落語界を追放され、高座に上がれなくなります。経済的にも困窮し、青木勝之助が復帰を掛け合いましたが、生涯復帰することはなくそのまま亡くなります。(その間に馬生の名跡は返上)
葬儀は浪花節の者たちで行う予定でしたが、そこまでするのはかわいそうだと、三代目春風亭柳枝が中心になって行われました。
 

青木勝之助はもちろん、四代目金原亭馬生も、浪花節の寄席進出の大きな功労者といえるでしょう。

浪花節の確立と拡大
鑑札を受け、正式に認められた「浪花節」
 
明治時代に入り、政府から「芸人取締令」が発布されます。これは、芸人からちゃんと税金をとるために、この芸能には誰々がいるなどを把握するためのものでした。
正式に認められる芸能には「鑑札」(許可証)が発行され、興行をすることができました。
この鑑札をもらうため、1872年に「東京浪花節連合」が誕生します。
こうして、「浪花節」という呼称が、はじめて公式に認められることとなりました。
 

ちなみに、関西では明治の晩年まで「浮かれ節」で鑑札がとられていました。

青木勝之助は、この後「東京浪花節組合」に加入し、関西から浮かれ節語りが上京する折は必ず勝之助の元に挨拶へ行ったといいます。
そして、彼の弟子が、初代の玉川勝太郎となり、現在までの玉川派につながってゆきます。
 
ヒラキの取締りと、浪花節の拡大
 
1890年、寄席取締規制が改正されます。
これによって、ヒラキ、またそれに類似する小屋が、厳しく規制されることになりました。
路上管理や野外興行が厳しく帰省され、ヒラキは衰退していきます。
そして、ヒラキで公演されていたちょうがれ・ちょぼくれ、ちょんがれ節の系譜の七色節、五色軍談、また祭文とその系譜にある諸芸能などは公演する場所を失い、生きるために、寄席で出番をもらい始めていた浪花節へと転向していきます。
 

演者が一気に増え、浪花節は勢力を拡大していきました。

こうして、浪花節は、明治10年から30年にかけて、類似していた隣接芸能を飲み込み、寄席演芸として定着していったのです!
 
 
演芸界で存在を大きくしてゆく浪花節。
 
この浪花節がこれからどのようにして、「大衆芸能の王」と呼ばれるまでにいたるのか、というところですが・・・
 
〽︎ちょうど時間となりました〜
 
次回、浪曲ができるまで3へ
 
まずこれまで〜
 
 
  以下の文献を参考に記事を書きました。

 Wikipedia 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E5%8A%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8E%9F%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%94%9F_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%82%AD_(%E8%8A%B8%E8%83%BD)

せりか書房「浪花節の生成と展開〜語り芸の動態史にむけて〜」